種も蒔いてもらって、さらに「育ててほしい」って、一体、誰の人生なんだろう。

こんにちは!

Connect.の渡邊優です。

日本の学校教育が生み出したもののひとつが「学校体質」だと思うという話を以前「教育」カテゴリ―でしました。

「学校体質」とは、学校を卒業してからも自分が属する組織の中の自分よりも経験が多い人やリーダーの指示を待ったり期待して自ら積極的に思考すること、行動すること、責任を負うことを放棄する体質のこと。

会社だけじゃなく、地域のコミュニティー等でもリーダーや主要メンバー任せになるのもそう。

めちゃくちゃ思うのは、「社会は学校じゃない」ってこと。

 

そうは言っても、全員が主体的になることはほぼ不可能だと思っているし、受動的な人に向いてる役割、その人たちの才能もたくさんあります。その人たちがいるから成り立つものがあります。

だけど、ここで受動的な人にとって大事になってくるのが「受け取る力」なのかなって。

「理解力」「察する力」「汲み取る力」「吸収力」とも言い換えられる。

受け取る側が、
1言われて1理解するのか、
1言われて10理解するのか。

そこから
1理解して10創るのか、
10理解して100創るのか。

受け取る力を鍛えれば、自分の価値が高まって、可能性が広がる

どんなに良い教え方ですごく役立つことを教えてもらっても、どんなに自分の才能を活かせる講座を受けても、受け取る側の受け取る力が弱いと、芽が出ない

果たして本当に教え方が悪いのか?

種は蒔いてもらった。

育てるのは自分。

そうじゃないなら種も自分で探さなきゃいけない。

種も蒔いてもらって、さらに「育ててほしい」って、一体、誰の人生なんだろう

 

もし仮に本当に教え方が悪かったとする。

それでもただ文句を言って終わりにしたら、あまりにも無駄になる。

我以外皆我師。

誰からも学ぼうという意志がある限り、誰からも学べる。

100%主体的にならなくてもいい。でも、自分の中のごく一部のこういう部分だけでも主体的にならないと、成長するのは難しい。

もちろん、教えることを仕事にしている人も相手の受け取り力を把握する「察する力」「理解力」「汲み取る力」は必要で、その人にとってわかりやすい方法を見つける努力が必要になる。

教える側も受け取る側も、主体性の割合や使うシーンが違うだけで、自分を成長させたいなら大切にする考え方は同じ。

ついつい外を向いてしまうベクトルを、内に向けてみる。

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