こんにちは!
Connect.の渡邊優です。
私は去年の8月から急に神社に行きたくなって、それから毎月どこかの神社に行くようになりました。
今日は神社参りを始めて10ヵ月経った今感じたことについてのお話です。
私は「心が催した時に催したことをする」のが大好きです♪
逆にすぐやらないと「心の旬」がすぐ変わってしまうので、それをやるタイミングを逃すと思うから、というのが理由のひとつです。(純粋に好奇心旺盛なのですぐやりたいという気持ちも理由のひとつです)
ちなみに、神社の話をすると中には「何かに洗脳されたのかな?」的な感情を抱いてしまう人がいるので一応書いておくと、私は今はどの宗教も信仰していません。
そもそも「怪しい」という感情は「知らない」ことが原因の「恐怖心」から派生すると思っています。
「知る」と、受け入れられるキャパが広がる。
「知る」と、否定しなくて済むようになる。
「知る」と、もっと軽やかに生きられるようになる。
私はそう思っています。
神社参りの話に戻ります。
神社参りを始めると、「神社そのもの」や「神社の参り方」が気になってきました。私は気になったことはすぐ調べる性格なのでネットで調べたり本を読みました。
こればかりはいろんな意見、方法があるので、良い悪いではなく、私はそれぞれが自分に合ったものを選べばいいと思っています。
調べていく内に、始めはついつい「“有名な神社”へ行こう」と思っていた自分に気がつきました。でも、本当に感謝すべきは「ご先祖様=お墓参り」と「自分が住む土地の神様=氏神様」だということにいきつきました。
それからはお墓参りと氏神様参り+気になる神社があれば行っています。
参拝方法についてですが、私は神社では「願い事」はしません。「感謝」だけ、もしくはそれに「自分の決意表明」を加えることがたまにあります。
私は、
・住所
・生年月日
・名前
・感謝
を伝えます。
お願い事をするのが悪いわけではないです。ただ、お願い事が他力本願すぎると「それって本当に叶うと思いますか?」と聞きたくなります。
例えば「痩せますように」ってお願い事をしたとします。
それだけで痩せると、自分は本当に思いますか?という話です。
「お金持ちになれますように」って願い事とかも、一歩神社を出れば自分の行動次第だということがわかるのに、なぜか人はお賽銭箱を目の前にすると急に頭がファンタジーになります。
もちろん中には「言うだけ言っとく」くらいな感覚の人もいると思うので、ここでは神社に行く理由がこういう他力本願な願望を叶えてほしいと割と強く思っている場合の話となります。
“天は自ら助くる者を助く”という言葉があります。
「他人に頼らず、自立して努力する者には天の助けがあり、幸福になる」という意味です。私の好きな言葉のひとつです。
まさにこれだと思います。自分で実際に努力していて、かつ、目に見える周りの人、目に見えない全てのものに感謝ができる人こそ「運」が味方してくれると思います。
目に見えないものにも感謝できたら、目に見えて自分の周りにいてくれる人にはもっと感謝できます。
私の周りの運が良い人たちはみんなそうです。
みんな努力家。みんな感謝体質。努力を怠らず、謙虚で周りの人を大切にし、周りの人から愛されています。
今は努力の力加減をゆるめられている人でも、始めは人よりも努力をしています。(結構ここ大事だと思っています)
参拝方法の話に戻ります。参拝方法も良い悪いはなく、私は「今」はこのやり方がしっくりきているからこうしています。
何かのやり方、自分のスタンスって、続けていると習慣になるもの、愛着が湧くもの、時に「変えられないもの」になっていきます。
私は、自分の成長と共に自分にまつわる全てのものは成長する可能性があると考えています。自分が成長したら変えればいい。手放したっていい。そんなスタンス、生き方が私は好きです。
神社参りを始めてからそんなことを考えるようになりました。
さらに、「お賽銭の入れ方」ひとつとっても気になり始めました。
ポーンと投げ入れる人がほとんどだと思います。でも私はそっと丁寧に入れるのが好きです。お金の扱い方を思ってそうしています。金額に関しては所説ありますが、これも自分の価値観と考え方で決めればいいことだと思います。
そしてなにより、こういうのは神経質になりすぎたら元も子もないと思っています。こだわりすぎると「何のために自分はこれをやるのか」の目的から逸れ始めます。本来なかった感情が入り交じり始めます。他人のやり方をジャッジしがちになります。私は自分の気分が良いやり方でこれからも続けようと思います。
次にお墓参りについて。
これは、自分の命があるのはまず遡ってご先祖様のお陰だと考えるようになったので始めました。身近な人への感謝は前からあったのですが、改めて深く考えるようになりました。
お墓参りや神社参りを始めて数か月後、おばあちゃんに会いに行った時、たまたまおばあちゃんが子どもだった頃の戦争の話になりました。
おばあちゃんから「おばあちゃんたちが小さかった頃、戦争で家の周りが空から降ってきた爆弾で燃えててね、その中をいとこ達と一緒に逃げたこともあったの。運が悪かったらおばあちゃんたちも死んでいたかもしれない。生き延びることができて、本当に運が良かったなあって、思い出す度に思うの。」という話をポロっと聞きました。以前の私だったら「戦争って怖いなあ」とか「すごい時代だったんだなあ」とか、その程度しか考えなかったと思います。
でも、お墓参りをするようになっていたこともあって、偶然おばあちゃんが生き延びたことで私のお母さんは生まれ、私が生まれたと思うと、「生かされているんだなあ」という感覚になりました。
それから、お墓参りの時の「ご先祖様への報告の仕方」や「お墓の掃除の仕方」にも興味を持つようになりました。
すると、引き寄せも起こってきます。そのタイミングで私が話題に出していないのに知人からそういうことに詳しい人がいるので是非優さんに紹介したい、と連絡が来て会うことになりました。
色々学ばせていただきました。自分でも調べるようになりました。
お墓参りに行くのも、それが親に「ご先祖様に感謝しなさい」と言われて行くのと自発的に行くのとでは全然心持ちが違います。
自発的に調べるのと相手から一方的に知識を押し付けられるのとでは情報の沁み込み方が違います。
私はこういう過程で、細かいことに気を配るようになりました。
こんな感じでお墓参りと神社参りを続ける過程で、良い意味で「細かいこと」が気になるようになりました。調べて、実践するようになりました。
すると、それは単に「お墓参り」や「神社参り」に限ったことではなく、日常生活の中で自分が見るもの全てに対して以前よりも「細部」が見えるようになりました。
一見「成功者」に見える人で神社へ参拝している人たちも、お金には困っていないけれど周りの人に「愛されている」とは言えない人たちもいます。自分が周りの人に愛される人生を送りたいのかどうかにもよりますが、周りの人に愛されている人たちは、やっぱり細部が違うことに気づきました。特に言葉によく表れるなと思います。
こういう部分が見えてくると、そこから学べるので巡り巡って対人コミュニケーションもよくなっていること、自分の感情の扱いも以前よりもうまくなっていることに気づきました。
私はお墓参りと神社参りから「神は細部に宿る」の一部を経験しているのかなと思うようになりました。
これはやってみないと理解するのが難しいと思います。なぜなら「感覚」だから。「感覚」は言葉でいくら説明しても「感じる」ことでしか体得できません。
「小さなことができない人に大きなことはできない」のような表現ってよく言われていますよね。「大きなこと」に気づくことよりも、「小さなこと」に気づくことの方が難しいです。大きなことは比較的知識で知ることができます。でも、小さなことは体得しないとわからないことが多いです。
こういうことに気づけると、視野が広がったり、人とのコミュニケーションがよりスムーズになったり、考え方もシンプルになったり、悩む意味のないことから解放されて本当に大切なことに集中できたり、成長できて、人生がどんどん軽やかになっていくんだなと思います。
私はまだまだ成長途中ですが、成長するのが今楽しくて仕方がありません。
こういうことも全部点と点で繋がって自分になるんだなと感じています。
何がきっかけでもいいからそこからやってみる→気になることが見つかる→調べる・学ぶ→やってみる→わかる→視野が広がる→更に気になることが見つかる→調べる・学ぶ→他のこととリンクする部分が見えるようになる→成長。
こんな感じで、繋がっていました。
私の屋号のConnect.は、最後に「.」を付けているのがポイントで、「点と点を繋ぐ」という意味合いを含めたかったから付けました。
Connect.としてのスタンスが「“私達にはまだ知らないことがある”という姿勢で学び続け、強い心を持って最上思考で点と点を繋ぎ、人々に価値を提供する」なのですが、改めて今回のことから私のスタンスがブレていないか自覚するきっかけにもなりました。
さて、長くなりましたがここまで読んでくださりありがとうございます。
きっと、このテーマの話を最後まで読んでくださる方は、今までたくさんの点を作ってきた方だと思います。
自分の成長の変化って気づきにくいものです。
でも、振り返ってみると、ワクワクするような線が見つかることがあります。
あなたのワクワク、いつか聞かせてもらえる日を楽しみにしています(^^)♪
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